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鐘ヶ淵との名称はどこから? | |
鐘ヶ淵の名称には2〜3の説がある。そこで、古文書より鐘ケ渕に
かかわるところを抜粋してみると。
○東都紀行(抄)では。鐘ヶ淵、鷺の名所なり。奥州街道千住通りになりて、隅田村の千軒町 も引きうつり、同村普門院は亀戸へうつる。その時あやまって鐘この渕におとすといふ。 また石浜法源寺の鐘楼くづれ入るといふ、両説にしてつまびらかならず、さだめて水中の 鐘に銘あるべし。 ○隅田古誌(明治25年)では、隅田川の鐘ヶ淵と云い、昔此渕に釣鐘の落たるを引揚る こと叶はずして捨置しが、終に渕の主となりて水底にあり、是は水神のをしめ給う故なりと里俗の日碑なり、故人云、 此渕に沈みたる鐘は昔干葉家三つ俣城在し頃、祈願所普門院と云寺、豊塚郡石浜にありしが、 其後亀戸村に替地を賜りて移転の際、諸物品を舟に積て運びけるに、過ちて半鐘を此渕に 落せしを、揚ること能はず其れになりしが、渕の底に今も沈て有とぞ、因て同寺に尋ければ、 専ら他人の日碑にはあれども確なる証もなし、大当院は元豊山郡亀戸村普門院と書来れり、 亀戸村は葛飾耶なり、故に御朱印改の節は毎度郡の違へるを御尋あり。右移転の由申上げれば、 其通書替て下附し給へりしといへり。昔の鐘ヶ渕は関屋の庭の真西に当り、潮入の岸に寄て 今附洲の中に水深き所あり、此処なるべし、古き村絵図に祥なり。今鐘ヶ渕と云ば、 関屋の汐除堤の崩れたる処の渕となれるなり、是此川の渕瀬の変遷したる実況なり。 ○文豪幸田露伴はその書の中で・・・鐘ヶ淵は紡績会社の地先にして隅田綾瀬の二水相会する ところの梢下の方を云う、往時普門院の鐘、此渕に沈みたれば此名ありとは江戸名所図絵 にも載せたる伝説ながら、けだし恐らく信づるに足らざる談ならん。 およそ鐘ヶ渕と名づくるの 深く諸国に甚だ多し、皆必ずしも梵鐘の沈むの故を以てのみ名づけんや、予の考をもてすれば、 鐘ケ渕は曲尺が渕にて、川の形、金の如曲折するによりて呼びたる地名の川沿の地に多く存するを も併せ考ふべし。 この古文書の抜枠併せて鐘ケ渕のいわれをまとめたものに“すみだむかしはなし”という小冊子が 墨田区長室から発刊されている 。 以下そこから・・・ 区内堤通2丁目、もと鐘渕紡績工場のあった付近を「鐘ヶ渕」と称しており、いまでも東武“鐘ケ渕駅” “鐘ケ渕中学校”に名を残している。 この地名の起りについて一説には、このあたりの川の渕が直角で、 あたかも大工さんの使う指矩 (さしかね)のようだったことによるといわれているが(幸田露伴が云っている) 広くはお寺の鐘が隅田川に沈んだことによると伝えられている。 いまから約360年ほど前の元和の ころ、浅草の橋場にあったお寺(普門院)が亀戸村に移転することになった。隅田川に橋がかかっていな かった当時のこと、亀戸村に行くには舟を利用する以外に方法がない、お寺には鐘がつきもの、いざ 引越しという段になって、どうやらこの鐘を舟に乗せたがなにしろ重量がある鐘のこと、川の中ほどに さしかかったところ、鐘の重みで舟は横倒しとなり、大切な鐘は、深い水の中へ・・・。さっそく引き あげ作業にかかり、いろいろと手をづくしたが、鐘はガンとして動かず、とうとう引き上げることは できなかった。 ついに水中の鐘は、渕のぬしとなって水底にとどまるところとなったが、これは水神 (近くに水の神を祭った隅田川神社がある)が鐘を手離すことを惜しんだためだろうとのうわさが広まり、 いつしかこのあたりを鐘ケ渕と呼ぶようになったと云う。 水底の鐘は晴れた日には川をいききする舟から見透すことができた。沈んでから何十年かたった 享保年間の末、隅田川にお成りになった八代将軍吉宗が、たまたま水中の鐘を発見し、これを引き あげるように命じた。 そこで大規模な引き上げ作業が行われることになり、数百人の力ですれば上がるだろうと鐘に数十本の 網を結び、力を合わせで引いたところ、網がぷっつりと切れてしまい、鐘は少しも動かず引上げ作業は そのまま中止になった。 この作業の模様は書物に次のように記されている。「おい茂った水草が波にただよい動く中で、竜頭 の光のようなものが走り、そのありさまは、鐘が生きているかのようで、なんとも恐ろしいものであった。 この話からすでに300年以上も経過した現在真疑のほどは確めようもないが、もしかしたら鐘は いまもこの渕の底に沈んでいるのではないだろうか ‥ とすると長い間世の中の流れを静かにみつめ てきた鐘の在処はいかに |